キヨシロー先輩、天国でも“ガッチャ、ガッチャ”歌ってください!

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キヨシローさんが亡くなった。
まだ58歳だった。
がん性リンパ管症と戦い続け、2008年には武道館で完全復活ライブを行うまでに回復したが、がんが転移。闘病の末に逝ってしまった。


RCサクセションの忌野清志郎さんは、高校の2年先輩だった。
東京都日野市にある都立日野高等学校。
清志郎さんが二期生、僕が四期生(実は妻も同級生)だった。


新設校ということもあってか、日野高はとても自由な校風だった。
高校の横を流れる浅川の土手を、男子生徒と女子生徒が仲良く並んで登下校するのは普通(40年前には珍しかった)だったし、教室や河原でギターを弾いて歌っているのも日常の風景の一部だった。RCの活動の背景には、そんな自由な校風もあったように思う。


僕が高校に入学した時には、すでにRCサクセションはTBSテレビ系の『ヤング720』に出演したりして、注目を集めていた。アコースティックギターをかき鳴らしながら歌う手拭ハチマキ姿の清志郎さんは、ホントにカッコよかった。後輩の憧れだった。



c0193396_12164519.jpg日野高の清志郎さんの同級生には、俳優の三浦友和さんがいた。
三浦さんも音楽が好きで、当時のRCでは時折パーカッションも担当していたという記憶がある。
そういえば「あいつは顔がイイから手伝ってもらってただけ」と、あの清志郎さんらしい辛口で、当時の三浦さんのことを語っていたっけ。



僕が高校1年の時に、清志郎さんと三浦さんは3年生。
当時、三浦さんには会ったことなかったが、清志郎さんは何度か見かけている。


なかでも今も鮮明に記憶に残っているのが、放課後の美術室での光景だ。
美術の時間内にでき上がらなかった絵を描くために美術室へ行った時のことだ。
教室に入ると、そこに清志郎さんがいた。
理科の実験の時に生徒がいつも着ていた白衣姿で、清志郎さんはカンバスに向かい熱心に絵筆を動かしていた。
あまりの真剣な表情に、声をかけられない雰囲気だった。


美術室の隣の教師部屋をノックする。いつもたばこの煙が充満している教師部屋のドアを開けて、絵を描きあげたい旨を伝え、僕も清志郎さんのそばで描き始めた。
その美術教師が、RCの「ぼくの好きな先生」のモデルにもなった小林先生である。

一緒に絵を描きながら、なにかを話した記憶があるのが、詳細はもう思いだせない。でもその時の情景は、いまでもはっきりと憶えている。



c0193396_202924.jpg次の再会はそれから10年くらい後。僕が洋楽雑誌の編集者時代。清志郎さんのインタビューページの担当として取材に立ちあった時のことだ。

その次は、さらに10年後。今度はフリーランスの音楽ものかきとなっていた僕が、清志郎さんのインタビューをさせてもらった。

インタビューの間はもちろん、写真撮影の時も、片時も象さんギター(アンプ内蔵のギター)を離さず弾きながら話してくれた姿を思いだす。

取材の後で、自分が日野高の後輩だということ、そしてあの“美術室”でのことを尋ねてみた。さすがに一緒に絵を描いたことは憶えていなかったが、「そう、日野高なんだ」と言って微笑んだシャイな表情を思いだす。



アコギをかき鳴らしていた清志郎さんが、ド派手メイクで登場した新生RCの一発目のライブを観た。日仏会館や日比谷野音や武道館etc.…いろんな会場で、いっぱい楽しませてもらったなぁ。



58歳。駆け抜けた人生。でもまだまだやりたいこともあっただろう。
天国でも、ド派手なメイクで“ガッチャ、ガッチャ”と歌っていてください!


先輩のご冥福をお祈りいたします。

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by mahalohilo | 2009-05-03 12:27 | music | Trackback | Comments(0)  

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